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 てのなか番外篇
太宰治とシュルレアリスム

小説『葉』におけるフラグメント形式とコラージュについて

July 97

 

 まず、「コラージュ」とはなにか。
シュルレアリストの画家、M.エルンストが用いた表現方法で、既成の図版を貼りあわせてつくる絵画である。
(この技法を用いて『百頭女』などの小説本を製作している)
ここで重要なのは、それぞれの図版=オブジェは作家の主体から離れ、自発的に結びつくという考え方、
つまり作家自体はあくまでも「オブジェクティフ(=客観的、と一応定義しておく)」な立場であり、作品は
もはや「作家」の創作活動を超えて存在している、ということだ。
よって、コラージュにおいては「作家」という主体は不在なのである。

 そこで、『葉』を読んでみる。

 明らかに支離滅裂ととれる断章=フラグメンツの連なりによる構成となっている。
時に、イプセン、ゲーテ、ヴェルレイヌの引用であったり、物語風であったり、方言;津軽弁による記述で
あったり、と種々様々な「フラグメント」の集合体である。そして、それぞれの構成要素同士に関連性はない。
また、作家自体がこれらを結びつけようとする意図も見当たらないばかりか、「ストーリー」としての流れを
成立させようとする意図さえない。つまり、ここでも「作家」という主体は不在なのである。

 アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのは、1924年であり、この『葉』が
発表されたのが1934年であるから、太宰がシュルレアリスムに関する知識を得ることは可能であった。
当時の知識人、ましてやエリート意識の強かった彼が、この新しい芸術運動に興味を持ったであろうことは
不思議ではない。
 自意識のかたまりのような人間であった太宰が、この「オブジェティフ」な世界、自我を超えた世界である、
超現実世界=シュルレアリスムに共感を覚えたのは、当然の成りゆきであった、と私は考えた。

 「作家」という主体がストーリー全体を支配するという旧来の「小説」のスタイルを超え、ただひとつ
ひとつの断章=オブジェが、『葉』という枠のなかで作家の意図を離れ自由に動き回る。
そこには、「ストーリー」という時間軸の上に成り立つ空間や、「プロット」という仕組まれた関係性はない。

ただ、そこにあるのは複雑な日常生活・思考の断片(フラグメント)であり、そのなかに、太宰は「リアル」
を見い出したのではないのか。もはや「作家という主体」はこの場において支配力を失った。
太宰はこの小説で目に見えない「新たな支配者」を登場させたのだ。

*参考文献*
『葉』〜『晩年』に収録  太宰治/新潮文庫 新潮社
  『シュルレアリスムとは何か 〜超現実的講義』  巖谷國士/メタローグ刊 1996
ユリイカ『アンドレ・ブルトン』  青土社
『シュルリアリスム宣言・溶ける魚』 アンドレ・ブルトン/巌谷國士訳 岩波文庫
 


 『晩年』新潮文庫
 太宰治

 『シュルレアリスムとは何か 〜超現実的講義』
 巖谷國士

 『シュルリアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫
 アンドレ・ブルトン/巌谷國士訳

   
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