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 てのなか番外篇
現代写真:1 R・フランクと荒木経惟

ロバート・フランクの業績と現代写真

January 98

 

ロバート・フランクの写真は、文学的であるといわれている。
同じく、日本において、いや今や、世界でその名が知られている日本人写真家荒木経惟もまた、
文学的であると評される人物である。

この二人の写真家を追ってみることで、現代写真をさぐっていこうと思う。

 

>ロバート・フランクの業績
彼の業績のうち、私が特に取り上げたいのは、「写真を編集した」という点である。
換言すれば、数ある写真を、新しい提示のしかたで発表したということである。
古くは写真黎明期に行われていたfiling的な要素、例えばデュカンやフリスまたはA・ザンダ−
などの記録活動の作業、最近ではヒラund ベルント=ベッヒャーらにみられる「タイポロジー」
的な記録活動の作業は、明らかに、第三者の視点で撮るスタンスであった。
R・フランクの場合、1958年フランスのロベール・デルピールにより出版された写真集
『Les Americans』を例にあげるならば、そこに写し出されている風景や写真は「一册の本、と
いう大きなまとまりのなかで他の写真と分かちがたく結ばれ、切り離すことができない構成要素」*1
として編まれていた。そしてその連なりが喚起させるイメージが、彼の「伝えたい」世界であり、
このことが後の写真家たちに影響を与えた方法論であったと考える。

 

>荒木経惟の「文脈」
同じく、「連なりがつくり出す世界」を表現しているのが荒木経惟ではないのか。
昨年、原美術館で行われた「アラーキー レトログラフス」や、神戸ファション美術館
(東京では三越美術館)での「SHASIN展」などでその世界を堪能できた。
特に「SHASIN展」にあった荒木の写真のコピーで作られたトンネル。
一枚一枚の写真が完結した世界を築き上げている訳ではない。
「連なる」ことで世界が広がっている。
その「連なりが作る世界」を表現するために、時に映画をいう手段を用いることすらある。
「アラキネマ」とよばれる、一種のスライドショーである。荒木自身が語っているように、
写真というのは、「一枚一枚を撮るときに、音とか言葉とかを殺し」てしまうものだから、
そこに音や言葉とか動きをつけたくなる。その結果映画を撮る。
でもそれは写真家がやる場合「あくまでも写真を見せる行為の延長」であり、写真家は
「現実を殺して一枚の写真を撮ることから始まるけど、写真を見せるときには一枚の写真
をそのまま見せるだけじゃなくて、自分の撮った写真を活き活きと見せようとして、
そのために映画という形態を利用」*2 する。

>「写真は虚構であり、それが動くとき現実となる。」
R・フランクもまた、映像世界をつくり出している。1960年代以降、作品を撮りつづけている。
それらは、前述した荒木の言葉を借りれば、「一枚一枚を撮るときに音とか言葉とかを殺して」
いることに耐えられなかった結果の手段ではなかったか。W・ベンヤミンが「複製される芸術作品
はしだいに、あらかじめ複製されることを狙いとした作品の、複製となる度合いを高めていく」*3
と言ったように、彼も「写真が真実を反映する鏡ではなく、同じイメージが再生、量産できる装置
にすぎず、その繰り返されるイメージの反復が、被写体のオリジナル性を曖昧にさせ、あるいは別
の意味を有するという点」*1 に気が付いていた。
ただ単に「写真を撮る」ということでは、作品として完結させることができなくなってしまったの
ではないか。

「貯蔵された記憶の断片=イメージで満たされた私のノートブック: 
  名前。ヒーローたち、ポストカード、言語(言葉)がそのフレームの内側で動いてゆく。
   別のもの─シーン─へと展開して。」*1

R・フランクにとって、写真はただのフラグメント=断片にすぎず、それらを編集することにより
表現へと高めているのだ。

1970年代以降の彼の写真には、その傾向が色濃くあらわれている。数枚の写真を組み合わせ、
そこに(時にはネガにまで)「言葉」を刻み付ける。
<Mabou>のシリーズでの一連の写真は、どうしても映像的に見えてしまう。そこにあるのは何枚
かの平面の連続であるにもかかわらず、写し出されている暗い海に吹いているであろう「つめたい
風」を感じることができるし、そこに刻み込まれた「ことば」とともに移り行く時の流れが、そこ
にある。 

荒木もまた、彼独自の「時間」を写真に刻み込んでいる。「日記」というやりかたで。
あくまでも、そこに流れているのは「虚構」の上にある時間ではあるが。いくつもの「日記」と名
のつく写真集や展示をつくりだしている。
この「日記」というスタイルも一種の編集作業ではないか。
彼がみたものは、彼の中で「編集」されて、あらたな「連なり」へと変換され、新しい時間を流れ
始める。前述の原美術館での「レトログラフス」の展示のなかで、特に印象深かったのは一階から
二階へつづく踊り場にあったステンドグラスのようなポジの展示だった。
たしか(記憶があいまいだが)写狂人日記だったと思う。
一枚一枚の写真は、それこそ「えげつない」ものもあるのに全体で全く別のものになっていた。
各々の写真をみせるというよりも、全体で「なにか」を見せようとする、作品の提示方法なのだ。

 

彼らは写真家である。が、それ以上の「なにか」を作品化しようとしている。
写真表現の可能性を探っているようにみえる。カメラはもはや、「像を写し取る機械」を超えて、
彼らの「体の一器官」にすらなっている。
わたしたちは、彼らの作品を通して、彼らのキャッチしたイメージを「再生」し、彼らの視線を
追体験するのである。

 

 

*参考文献* 文中*印は以下の文献から引用させて頂きました
*1
>>ROBERT FRANK MOVING OUT展カタログ  SCALO/1994
「全体を構成する断片:写真のシークエンスの意味するもの」 サラ・グリーノウ
 「じっとして- そのままつづけて:近年の写真作品」 W・S・ディ・ピエロ

*2
>>ユリイカ臨時増刊 荒木経惟   写真戯作者の55年   青土社/1996

>>横浜美術館叢書 1 ヌード写真の展開
第三章「現代写真とヌード」天野 太郎
第四章「日付のあるヌード- 荒木経惟について」倉石 信乃 
有隣堂/1995

*3
>>ベンヤミン・コレクション1 近代の意味
「写真小史」「複製技術時代の芸術作品」/ちくま学芸文庫/1995

>>コロキウム・ベヒャー
「モダニズムを超えて-ベッヒャーの地平-」 深川雅文
川崎市市民ミュージアム/1996

>>明るい部屋 写真についての覚書
ロラン・バルト/花輪 光訳  みすず書房/1985


 『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫
 ヴァルター ベンヤミン

 『ヌード写真の展開 』横浜美術館叢書
 横浜美術館学芸部 (編集)

 『明るい部屋 写真についての覚書』
 ロラン・バルト/花輪 光訳

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