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 てのなか番外篇
メディアと文学;1

文学とマルチメディア、インタラクティヴィティにおける表現の可能性について

September 98

 

 ここ数年で、「メディア」をめぐる状況は著しく変化している。
特にインターネットの普及が、その一端をになっているといっても過言ではない。
同時に「マルチメディア」という概念も、媒体として利用され始めたことにより認知されている。
だからといって、電子出版などの「マルチメディア」が活字文化を侵食する、という考えは的外れである。

残念ながら、このような考えを公言する作家・表現者がいるのも事実である。
あくまでも、この新しいメディアによってもたらされたものは、「新しい作品表現の提示の方法/手段」
にすぎない。逆にいえば、これらのメディアを使って表現した「なにか」は「新しい表現」であるという
考えは誤解であるということになる。
したがって、文学という分野における「表現」が現在抱えている問題が、このメディアによってドラス
ティックに解決されることはないのではないか。これはあくまでも、表現における「媒体」の問題にすぎ
ないのである。仮にも、「マルチメディア」が「活字文化」を「侵食」してしまうことがあるなら、それ
はもともと既存の「活字文化」が微弱であっただけのことであるという論理が成立し、同時に「文字によ
る表現の崩壊」を意味する。

しかし、冷静に考えてみれば、人間が「文字」というコミュニケイション手段を必要とする限り、それは
あり得ないと考えるほうが自然だ。
そして、もうひとつ確認しておかなくてはならない論点は「表現されるものの本質」という根本的な部分
は、新しいメディアの登場によって著しい変革をしているとは言えない、という現在の状況である。
つまり、前述のとおり、マルチメディアはあくまでも新しい「表現媒体」にすぎない。
しかし、このメディアを活用することによって、ある表現手段の方法としての可能性が広がるということ
はあり得る。表現者は、このメディアに自分の作品をどうリンクさせてゆく/させているのであろうか。

そこで、「インターネット」という電子メディア上で著わされている文学をみることで現在の状況を考え
てみることにした。

作家いとうせいこう氏のEmail novelをひとつの試みとして、とりあげてみたい。

1. 「フィクション」が「私」に近づいてきた

 いとうせいこう氏によるemailを使った小説 『黒やぎさんたら』を講読した。
いとう氏によれば、「このE-Mail小説は最初の構想から発表の過程にいたるまで、ずっとインターネット
上にあり続けることになります。キーボード上で書き、サーバにつなぎ、そこから読者に直接送られる小説…」
「読者一人々々の情報にしたがって小説がパーソナライズされる以上、受け手を巻き込む形になることは
確実です。どこまでが本当かわからないような空間から、僕は毎月あなたに小説を送ります」ということ
である。

この小説の提示方法を簡単に説明する。
まず、講読希望者は、この小説の送り先である自分のメールアドレスと同時に、自分に関する簡単なデータ
(例えば「好きな色」「最寄りの駅」「既婚か未婚か」「冗談は好きか」など、数項目)も登録する。
以後、講読してゆくことになる「小説」は、その内容の一部が、登録されたデータをもとに読者毎にパーソ
ナライズされる、という仕組みである。
登録後、実際に送られてくるのは月に一度。ここで、おもしろいのは、最初のメールでいきなり講読者本人
の存在が消されてしまうことである。送りもしない「わたし(講読者)」からのメールに大変迷惑している、
という主旨の内容なのだ。そこに(これから展開されていくであろうと「受け手」が想像した「フィクショ
ン」の世界に)、現実の自分のメールアドレスが登場してしまうのだ。
続く二回目のメールでは、「わたし」のメールアドレスは、実はあるシステムに組み込まれ、悪用され、
多数の人間に使われている、と指摘される。
もはや、自分のメールアドレスは自らの手をはなれ、多くの人間によって使用されている。
たかがメールアドレスなのだが、あたかも「自分」という存在が拡散してしまったかのごとき錯覚を覚える。
実際は、もちろんそんなことはない。
フィクションではあるのだが、この「電子メール」と「インターネット」というシステム上で展開するこの
「フィクション」は、このシステムを利用しているからでこそ感じる、妙なリアリティを持ち始める。
「フィクション」でありながら「メール」という媒体に乗って受け手に届いた時、現実に近い「フィクション」
へと変貌する。
これは、従来の媒体により提供される「フィクション」の形態とは異なる点だ。そこには、作者と受け手の
間にある種の「相互性」、つまりインタラクティヴィティが生まれている。
やがて、「そのフィクション」上で完全に存在を否定されてしまいつつある「受け手」にさらなる「物語」が
用意される。いわば、作者からすれば、最初の「メール」をめぐる話の中に、もうひとつ、いわば入れ子構造
の「物語」を出現させる。

「そのフィクション」上で完全に存在を否定されてしまいつつある「受け手」は、その新たな「物語」の出現
によって、さらに妙なリアリティを感じることになる。「物語」の中の、登場人物の名前が自分なのだ。
最終的に、最初の大枠のフィクションと入れ子の「物語」は融合し、さらにさらに読者を現実世界から「妙な
リアリティ」へと引きずり込む。結末は(この小説を読んだ人間だけの秘密にしておきたいのは、やまやまだが)、
「メタフィクション」的に、それまで読んできた「物語」が崩され、もとの何もない地点、つまり、この小説
を読む前の「妙なリアリティ」を抱え込んでいない状態を目の前に突き付けられて幕を閉じる。
断わっておかなくてはならないのは、いとう氏は、以前にも優れた「メタフィクション」を書いている。(『波の上の甲虫』1995)
つまり、ある方法を構築した「小説」を書くということをすでに実行されている。 その方法を「電子メールに
よって配信される読者毎にカスタマイズされる小説」に置き換えただけのことである。
つまり、このemail novelは、ある方法論の構築によって書かれた「小説」をインターネットというメディア/
媒体にのせかえて、そのシステムによって「小説」をさらに展開させた好例である、といえる。

2. 「変わるもの」と「変わらないもの」

 「文学」の根本概念へと話しは戻る。
作家村上龍氏は、「文学とは、翻訳である」という表現を使った。
「表現されるものの本質」という部分、それは現代という世界で生きている我々自身の姿であるかもしれないし、
人間が持ち続けている抽象的な概念であり、あるいは自分が見たことのない時空間での出来事であったりする
部分が、「作家」という表現者によって「翻訳」され、かたちになったのが「文学」である、という考え方。
この先、どんなに新しい表現媒体が出てきたとしても、そのような考え方を根底に持つ文学という「表現」は、
文学という芸術に与えられた普遍的使命のようなものであるし、もしかしたら「文学」という形態が出現した
遥か昔から変わることがなかったのではないか。
それを証拠に、古今東西の「古典」という文学が、現代を生きる我々に今なお感動を与えているという事実が
ある。

表現者は、新しいメディアに、その役割を負担させてしまうことはできない。が一方で、積極的に取り入れる
ことで、その「可能性」をインスパイアさせる努力はしてゆくべきであるし、現在のメディアは日々、その
実験場を用意している。

>>参考URL
■いとうせいこうE-mail小説
http://www.rim.or.jp/novel/seiko/seiko-info.html (現在は公開されていません)



 

 『波の上の甲虫』 幻冬舎文庫
 いとうせいこう

 
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