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 てのなか番外篇
現代における絵画の可能性

Gerhard Richter の苦悩

January 99

 

「絵画の時代は終わった。」
そうだろうか。20世紀的言説でいえば「網膜的な絵画には興味はない。興味があるのは“運動そのもの”であり、
美をつくり出しているのは、運動の、あるいは身振りの想像力なのだ」としたMarcel Duchampは、確かに新しかったし、
彼はそれを正当化する作品を提示した。
Duchampの後に、さらにその言説を展開させる作家が続けば、もっとおもしろい「絵画」の展望が開けていたのでは
ないかと思えてならない。

「芸術現象は、見る人の解釈によって、他以上にはるかにその解釈によってできているからです。見る人こそ、
芸術家が見ていないものを、あるいは見ていると思っていても、見ていないものを見てしまうのですよ。」註1
と、あの難解といわれた作品を制作していた作家が「絵画」に対してこんなにも純粋なことを言っていたのである。
以後、美術作品はミニマリズムやコンセプチュアル・アートなど、どんどん「作家=見る人」の間を引き離してゆく
ような方向へ進んでゆくこととなる。
そういう意味では、Duchampは作品に対する「アクセス」回路を用意していたという意味で、あのころ「絵画」に
一番近い場所にいたのだといえる。
近代以降、写真や映画などの芸術が出現し、たとえば、「芸術作品の技術的な複製性」において「ピカソ」よりも
「チャップリン」のほうが「進歩的」であるとした註2、ベンヤミンがいうところの「絵画の危機」言説を鵜呑みに
する時代は、今や、すでに通過した後、である。

そして、「絵画」は存在しつづけ、その可能性を探っている。

その一例として、Gerhard Richterの「絵画」に対するアプローチに、その可能性をみることはできないか。
以下、Richterの作品をみながら考えてゆくことにする。

 

>Gerhard Richter『写真論/絵画論』

Gerhard Richterは、当時のドイツでまだ「東」と呼ばれる地域のドレスデン生まれの「画家」だ。
彼は、後に(60年代)「西」へ移住し、Sigmar Polkeや Konrad Fisher-Luegらと共に、初期のポップアートを嘲るか
のように“Capitalist Realism(資本主義レアリスム)”の一派に属し、都市のイメージや広告などのレディメイドの
サインを巧みに使って作品を制作していた。
続く、15年間の Richterの作品は、“写真”と“絵画”の際で再現=表象している。
時には、「どちらでもなく」ありたいという含みを強く出しながら。
70年代は、グレイのくねりによって構成された作品群。1981年には、大きな鏡のカベからなる作品。
特に取り出してみたいのは「フォト・ペインティング」だ。Richterは、この方法論において、写真を絵画にした。
それは一見、「絵画」の「写真」への迎合のようにもとれるが、Richterの意図したところは違うようだ。
「絵画」がもっと多くのことを生じさせうるということの一例を「写真」という図像を描いてみせるということで
表している。これは、このような作品を制作するのと同時にアブストラクト・ペインティングを制作していること
からもうかがえる。
つまり、「絵画の描写機能」と「絵画の形式的な自己言及性」註3とは対立として位置しているわけではなく、
同一項として扱われているということなのだ。

Richterは、写真について次のように言及している。
「写真によって、我々はたしかにある描き方を忘れ、ある特定の芸術的特質を、もはや生みだせなくなった。」
その特質は「たんなる描写機能にとどまるものではない。つまり、創作行為、構成、なんでもいいけど、あの完璧
さは、写真がなかったとしても失われていただろうからね。文学や音楽も同じ悲惨を味わっている。」
このような喪失をひきおこしたものが、複製手段の技術的発展ではなく、アドルノのアウシュビッツ引用が述べて
いたような歴史上の突発的な破局の経験でもなく「根本的なもの、それを僕はまず中心の喪失という事態にみている」註4

そんな中で、Richterは“peinture”(フランス語で“絵画=painting,paint,picture”の意;我々の時代に
ふさわしい全ての表現にあるもの、一方で、同時に抽象絵画を生み出すこと、大量に生み出されたイメージ─
スナップ写真とか写真ジャーナリズムによる─にもとづく絵画、と並んで、色とかとRichter自身は定義)註5
という文化に対して異義をとなえ続ける。ある種のイデオロギーが「絵画」に介在することを嫌う。

 

>「絵画」の苦悩

Richterにとって、「絵画」とは「未知のもの、僕の計画を超え、僕より優れていて知的で、普遍性をもつもの」註6
なのだそうである。どこか、ロマン主義的な感じも受けるが、抽象絵画が限り無くミニマムな方向へ行き過ぎて
しまい、かといって絵の具とカンバスの上に描くより、他の手段を知ってしまった現在の芸術においては、
やはり「絵画」は表現手段としての可能性を失ってしまったのだろうか。
Richterのインタビューでは、しばしば相手の批評家から、その制作論上の矛盾をつかれる場面が少なくない。
そのあたりに、また“苦悩”の文字がよぎるのだが、しかし、よく考えてみれば、批評家たちの「手の内にある
カード」以外のところにRichterの絵画は存在しようとしているわけで、それこそ彼らが必死に押し込めようと
している“peinture”の制度の外側に、彼の考える「絵画」の可能性があるのだ。
Richterの苦悩をみると、決して明るい展望は開けそうにもないが、彼自身、かつての「絵画」の特権性を再現
しようとしているわけではないので、ドラスティックなセンセイションを巻き起こすことはないにせよ、根気強く、
その「可能性」をさぐってゆくことは間違いではない。

とりあえず、ミニマルな方向へ向かうベクトルと、表現主義へのベクトルの間の均衡の上に立っている現状で
様子をうかがうしかないが、表象する「美」は、いつの時代もかたちを変えながら存在しているのだから。

 

<引用>
註1>
『デュシャンとの対話』
絵画をする人p99
註2>
『複製技術の時代における芸術作品』p96
註3>
『写真論/絵画論』ベンジャミン・ブクローによるインタビュー p35
註4>
『写真論/絵画論』
ベンジャミン・ブクローによるインタビュー p37
註5>
『Avant-Garde and After :   Rethinking Art Now(Perspective)』
Painting and Politics:1976-90 p52 (自訳)
註6>
『写真論/絵画論』
ベンジャミン・ブクローによるインタビュー p42

 

<参考文献>*印は引用文献
+『デュシャンとの対話』*
 ジョルジュ・シャルボニエ/北山研二 訳
 みすずライブラリー みすず書房/1997

+『ゲルハルト・リヒター  写真論/絵画論』*
 企画/ワコウ・ワークス・オブ・アート
 翻訳/清水穣
 淡交社/1996

+『Avant-Garde and After :  Rethinking Art Now(Perspective)』*
 Brandon Taylor
 Harry N Adams/1995

+『ボードレール 他五篇』*
『複製技術の時代における芸術作品』所収
 ヴァルター・ベンヤミン/野村修編訳
 岩波文庫/1994

+『デュシャンの世界』
 M・デュシャン P・カバンヌ/岩佐鉄男 小林康夫訳
 朝日出版社/1978

+『マルセル・デュシャン全著作』
 北山研二訳
 未知谷/1995




 

 『デュシャンとの対話』みすずライブラリー
 ジョルジュ・シャルボニエ/北山研二 訳

 Avant-Garde and After : Rethinking Art Now
 Brandon Taylor

 
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