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 てのなか番外篇
「ポップアート」

日本とイギリス、アメリカの「ポップ・アート」の温度差

January 00

 

ポップ・アート。
この言葉から連想されることといえば、たとえばアンディ・ウォーホールや、リキテンスタインなどのアメリカ人作家が
思い浮かぶ。しかし、実際、「ポップ・アート」はイギリスで発生した。そして、我が国にも似たような美術の状況は起
こっていたのである。

「ポップ・アート」という切り口で、これらアメリカ・イギリスと日本の、その時代の動きをみていこうと思う。

●イギリス
「一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか」

「ポップ・アート」という名称の発祥元に関しては諸説あるが、ここではとりあえず、その中心的グループであった
ICA(Institute of Contemporary Arts)の周辺からさぐっていくことにする。
1956年イギリスの作家リチャード・ハミルトンが世界で最初のポップ・アート作品といわれる一点のコラージュ作品
を発表した。
「一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか」という長いタイトルのこの作品について、
作者ハミルトンは「私の目的は日常的な事物と日常的な生き方の叙事詩とは何かを探究することにある」と述べている。

そして、彼はまた、「ポップ・アート」について次のような定義をもつくった。

・簡単に忘れられること
・大衆的であること
・若者向けであること
・ウィットに富んでいること
・セクシーであること
・まやかしであること
・グラマラスであること
・大儲け(ビッグビジネス!)であること
 
 註1

ハミルトンが、美術の領域でこのようなことを言った意義は大きい。
これらのことは、裏を返せば、それまでの「既存の美術の定義」とは逆の方向性であったからだ。
彼を含むIG(Independent Group)は、当初、美術における「美学的」領域をとびだし、たとえば空想科学や大衆文化、
工業産業などと美術との連関といったようなものに重点を置き、いわば学術的な姿勢でアートにアプローチした。
当時、彼等が企画した討論会は「空想科学小説」「自動車のスタイリング」「ポピュラー・ミュージック」、さらに
「消費社会」などをテーマにしている。
また特徴的なことは、彼等のメンバー構成にもみてとれる。
前述のR・ハミルトンとエドワード・パオロッティをのぞいては、美術評論家や写真家、建築家などであり、
実際IGは作品制作を主眼とはしていなかったのである。
それでは、なぜ、1950年代後半にイギリスにこのような「アート」の土壌ができあがってきたのか。

第二次世界大戦後、世界は「アメリカ」により支配され始めていた。
支配、ということばは、それまでの文字どおりの「統治」という意味ではなく、「影響」と換言してもよい。
政治的な「支配」、文化的な「支配」が全世界を覆い始めたのだ。
その一つが「東西冷戦」という形になったのは歴史が証言していることであるが、ここでは、このことには
言及せずに先へと進むことにする。

「美術」という領域に関しては、戦前まで明らかにフランスが、特にパリがその中心であり、発信拠点でもあった。
世界の美術の動向は、すべてといっていいほどパリを中心に動いていた。

しかし、戦後、状況が変わる。
拠点は、もはやニューヨークにあった。シュルレアリスムやダダの中心人物たちが、戦時中、ヨーロッパを離れ
ニューヨークへと移住したのも一因であろう。
すこしづつ、土壌がかたまっていたのは事実である。
戦後、景気がよくなったアメリカは、一気に「豊か」な国となり、あらゆる分野において「NO.1」に成り上がって
いくのだ。
アートの分野でもその傾向は明らかで、この「アメリカナイズ」された状況に、どう対処していくのかが、彼等の
一大命題となってゆく。その結果が、ICA周辺で結成されたIGとなる。

もうひとつ、イギリスの「ポップ・アート」誕生に一役かった背景がある。

それは、このころ発生したサブカルチャー環境である。
50年代後半にゴスペルとブルースという“黒人”の音楽と白人のカントリーウェスタンから「ロックンロール」
が生まれる。英国に入ったアメリカ産のこの音楽は、イギリスの若者たちを熱狂させる。
しかし実際は、この音楽は、英国内では「異質」であった。
それゆえ、その「異質性」をともなった「ロックンロール」は、「まともな」労働者階級からこぼれ落ちた若者
たちを「テディボーイ」へと仕立て上げる。 テッズは黒人のR&Bと貴族的なエドワード調スタイルで装備された。
しかし、彼らは、ロックのルーツというものを知ることなく、つまりスタイルとしては「クロ」を身にまとって
いたが、実際は西インド諸島出身の移民達を襲撃したりした。

というように、確固たる階級に立脚した社会制度という伝統の中で「アフリカへの帰還」願望の若いジャマイカ
移民二世と、彼ら若いジャマイカ移民二世の中に自身のサブカルチャーを求める白人労働者クラスの間の衝突と
いう矛盾を引き起こしながらも、若者たちはイギリス国内であらたなユース・カルチャーを生み出した。
資本主義社会の中で増殖する「アメリカ」をいかにその伝統や階級の支配する文化の中へと取りこんでいくのか。
またはいかないのか。
それまでの歴史伝統にもとづくアートは、この先どうなっていくのか。

以上のような文化的背景をもとに「ポップ・アート」は産声をあげたのである。
しかし、1960年代に入ると、少し様子は変わる。それは「アメリカナイズ」を視野に入れて発生したはずの
イギリスのポップ・アートが、アメリカを経由し逆輸入される状況へと移行してくるからである。
そこで次に、アメリカにおけるポップ・アートをみていこう。

 

●アメリカ
「キャンベル・トマトスープ缶」

ヨーロッパには「歴史の重み」がありすぎた。
やっかいごとを蒸し返し続けていたヨーロッパにおいて、第二次大戦はさらにその状況を拡大させた。
そんな状況に嫌気をさした多くのアーティストは早々に「ヨーロッパ」、つまりそれまでの文化の拠点を離れ
新天地アメリカに亡命した。
現代美術の立て役者でもあるマルセル・デュシャンやピカビアを先頭にモダンアートの巨匠たちは、みな、
ヨーロッパを後にした。
このように、常に「ヨーロッパ」にコンプレックスを持ち続けてきたアメリカは、すこしづつ自らの手に何か
をたぐり寄せることになったのである。

そして、「アメリカ」が世界の中で栄華の直中に位置するようになった。
手に入れられないものはなかった。
やってきた大量消費文化という土壌にあって、そのような「アメリカ的文化」をサンプリングしてみせた、
イギリスで生まれた「ポップ・アート」という鏡に自らを映し出すことによって、そこから、反面教師的に
見い出したものを再表象する試みが生まれてくる。

その騎手が、アンディ・ウォーホールであり、ロイ・リキテンスタインであった。

ウォーホールは、キャンベルスープ缶や洗剤のブリロの箱、コカコーラなどのイメージをシルクスクリーンの
方法で増殖させてみせた。これらの商品は、まさに大衆によって「大量」に「消費」されていたのもので、
これらのイメージのプリントを「繰り返すこと」が、彼のアート作品となった。

また、リキテンスタインは、マガジンにあふれるカートゥーンを印刷の網点までも写し取ることで表現した。
ここでもまた、確固たる作家性よりもむしろ、無名性や「大量」に増殖するイメージが強調され、それが、
マスなメディアに取り囲まれている現代をも象徴することになった。

これらの「ポップ・アート」は、全世界的に受け入れられるようになった。
前述のイギリスのポップ・アートは、ある種、観念的なアプローチであったが、アメリカでおおいにうけた
「ポップ・アート」は、やはり「アメリカ」という国においての独特な盛り上がりによって、そして、
それは乗り越え取り崩さねばならない歴史 伝統のしがらみのない「アメリカ」という国であったからこそ、
より高みに押し上げられたのではないだろうか。

 

●日本
「太陽の塔」と「偽千円札」事件

以上のような経緯を経て、日本の状況をみていくことにする。
あえて、作家をあげるならば、岡本太郎が戦後行ってきた著述活動は、注目する価値がある。
1952年には『縄文土器論』、1953年には『日本の伝統』という論文を発表しているあたりも含め、
興味深い。
しかし、そこには非常にドメスティックな視点以外には、イギリスやアメリカでみられたような他国の視線
から生まれた、自国の文化の再表象は感じられない。

まず、イギリスとの徹底的な違いは敗戦国であったことだと思う。
つまり、日本にとってアメリカは憧れの対象であり、自国のアンチテーゼとしてみるには遠すぎた。
日本における「アメリカナイズ」された文化は、「認める対象」としてではなく「追い付く対象」として
しか見ることができなかった。

その風潮の中で、まさにモニュメンタルにそびえ立ったのが「太陽の塔」であった。
世界の視線を一身に受け止めた作品ではあったが、自国の国民にはあまりよく受け入れられなかった。
「太陽の塔」は孤独に立ち尽くすばかりだった。
岡本太郎は、1970年当時、大阪の日本万国博覧会のテーマ・プロデューサーとして「何をみていた」のか、
そして、国民は「何をみていなかった」のか。
今なお、千里の丘で、「太陽の塔」はそれを訴えつづけているように思えてならない。

また、それほど深刻ではないにしろ、同じようなスタンスに立っていたのが、赤瀬川源平の「復讐の形態学
(殺す前に相手をよく見る)」で、これは偽千円札事件として実際に作家が逮捕された。
海の向こうでは、ウォーホールがドル札を「作品」にし、そのイメージを大量に表象してみせていたのにも
かかわらず。

 

●日本とイギリス、アメリカの「ポップ・アート」の温度差

さて、このころの日本では、「ポップ・アート」が育つ土壌が存在したのだろうか。
一般的には横尾忠則などのグラフィックの分野における活躍が、そこにあてはまるという認識がある。
しかし実際、「美術」というフィールドで、これが「ポップ・アート」であるという位置付けをされている
作家や動きはあったのだろうか。
どうもグラフィックの極一部をそう定義しただけで、イギリスで行われていたような「アメリカナイズ」
されつつある、自国の文化に対する考察がなされていた様子はない。
むしろ、戦後の日本は、敗戦によってそれまでの歴史伝統を「ゼロ」にされてしまい、挙げ句の果てに
その活路を自らを「アメリカナイズ」することに求め、自らの文化を顧みることなく、すっぱりと振り
返らなくなってしまった印象が強い。
「アメリカナイズ」された大量消費文化に追い付くことが、日本が日本たりえる、と錯覚していたでは
ないかとすら思う。
つまり、イギリスとアメリカが「ポップ・アート」という方法で自己の文化を考察するということが
可能であった土壌は、 そこにはないのだ。

ここでみてきた「ポップ・アート」という動きは、実際に表象された作品だけを指すのではなく、
個々の国における文化の 再認識であり再編成であったように思う。

その点で、「ポップ・アート」というフィルターは、個々の国の文化を認識する上での差異を
映し出してくれた。

 

註1
「TOKYO POPとはなにか」椹木野衣 p.72 広告批評no.226 マドラ出版1999

参考文献
『ポップ・マニエリスム』 日向あき子 沖積舎1993
『ポスト・ポップ・アート』 ポール・テイラー編 岡村多佳夫訳 スカイドア1994
『サブカルチャー』D.ヘブディッジ 未来社1986
『踏みはずす美術史』 森村泰昌 講談社現代新書1998
広告批評 特集TOKYO POP マドラ出版1999
ユリイカ 特集岡本太郎 青土社1999



 

 『ポスト・ポップ・アート』
 ポール・テイラー編 岡村多佳夫訳

 『Subculture, the Meaning of Style』
 Dick Hebdige

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