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 てのなか番外篇
ピナ・バウシュの「踊る場所」

なぜ、投げ出された「身体そのもの」がひとを惹き付けるのか。

January 98
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ポストモダニズム的「身体」の出現により、「主体」があいまいになりつつある現在において、ダンスは、演劇は、
最後の砦としての「身体」をよりどころにして/せずに、どのように表れているのか。
サミュエル・ベケットの戯曲を参照しながら、ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団における「タンツ・テアター」
という表現から探っていこうと思う。

 

>>「わたしじゃない」

かつてサミュエル・ベケットは徹底して「わたし」を解体する試みとして、多くの劇作や小説を書いていたように
思える。
有名な「ゴドーを待ちながら」においてもそうだが、結局「ゴドー」は現れないし、それを待つディディ(ウラジー
ミル)とゴゴ(エストラゴン)というふたりも、実は何者であるのかわからない。
過去/未来から引き離され、現在のみを与えられたふたりには、とりあえず「待つ」というコトだけが、自分達を
確認するすべであり、それ以外のことでは自らを定義づける何かを持ちあわせていない。
その存在すらあいまいなふたりの前に現れる、絶対的な主従関係を結ぶポッツオとラッキーが、さらにディディと
ゴゴの存在をあやういものとして照らし出す。
「ゴドーを待ちながら」は、ベケットにとっては極最初期の戯曲になるわけだが、この作品以降、彼の作品中の登
場人物は、どんどんミニマルなものとなっていき、ついには口だけが登場し、堰を切ったように解読不可能な言葉
をしゃべり続けるという作品がでてきた。
「わたしじゃない」という作品である。
この作品について、別役実氏は、以下のように解読している。
「まず、言葉が存在の外側にあって、それにからだが順応していく。だんだん唇が動き始めて体全体がかかわり
始める。それが、いつの間にか言葉になっている。」
「少なくとも、言葉というものが、人間の内側から紡ぎ出されてくるようにでてくるということではなくて、
むしろわれわれの外側にあって、それが人間を襲う、人間に取り憑く、ということが現実にあるかもしれない。
「孤」であることの意識は、そのようにして言葉に襲われるのです。」註1

前述の「ゴドーを待ちながら」でも、ゴドーを待つふたりは「考える」ことをやめようということを「考えて」
しまうという、どうにも逃れられない状況に苦悶するシーンがある。
どんな方法で「わたし」を消し去ろうとしても、最終的に消すことができない「身体」が、ただそこに、
はだかのまま残されてしまった。

そんな行き場をなくしてしまった「身体」を、ピナ・バウシュは、どう受け入れ、どう突き放したのだろうか。

 

>>ピナ・バウシュの身体

ピナ・バウシュは、自らのカンパニーを、「Tanz Theaterタンツ・テアター」と呼ぶ。
「タンツ・テアター」とは?の問いに対し、幾つかの定義づけがある。
ユリイカ「ピナ・バウシュの世界」の中で、「ピナ・バウシュの強度」と題された渡辺守章/浅田彰/石光泰夫
の対談中、浅田氏は「<出会い損ね>の劇」とよび、石光氏は、ハイナー・ミュラーがドゥルーズ=ガタリから
引用して使った「ダンスの逃走線」という言葉をつかった。
後者については、そこにある「逃走」とは「言葉の演劇」と「古典のバレエ」からの、それであると説明している。

確かに、ピナの「タンツ」は、自らが辿ってきた「ノイエ・タンツ」からは離れ、ピナ独自のものとなった。
これは、例えば、モダン・ダンスが持っていた「私が世界/他者となる」形式とも異なり、また従来のような
ダンサー=コレオグラファーという主従関係さえも取り払った。
それは、「普通の身体がアクセス可能でピナ自身のダンスする身体と同じ有りようを生み出すツール」註2として
機能しているのだ。

桜井圭介氏は、ピナの舞台の遺憾ともしがたい“位置付け”を次のように考えている。
ダンスじゃない「身振り」と現実のものを持ち込む「設定」により、現実=虚構の垣根をなくし、そこにある種、
「意味」を潜ませる。
このように“シュミレーショニズム”としての「タンツ・テアター」が出現し、いったん、周倒に回避された
パッションがシュミレイション空間に「再現」される。
ここに、「強度」が発生し、この「強度」に観者は実際の感覚をもった“痛み”を感じる、註3というわけだ。

それでは、各ダンサーが「私」として舞台に立つことがない、ピナの「タンツ・テアター」では、なにが出現
しているのか。
「タンツ・テアター」において、「私」は常に「他者」の中にある。
換言すれば、「私」は「他者」を巻き込む形で関係を保っている。
このように、「自」と「他」の境界線があいまいになった場には、“物語”が存在するわけもなく、ただそこに
投げ出された「身体」のみが現れる。
ピナ・バウシュのタンツは、身体そのものである。強要された「振り」や「演劇性」から自由な身体が、
“板 (la planche/on the board)の上”に表われている。

では、なぜ、投げ出された「身体そのもの」がひとを惹き付けるのか。

ここで再びベケットに戻る。
ベケットは、とにかく「そこにあらわれる私」というものを細かく砕き、ばらばらにして
“板の上 (la planche/on the board)”に投げ出した。
そこにあらわれた者たちは、たしかに「私」という呪縛からは自由になったようである。が、苦悩していた。
逃れられない「ナニカ」を抱えこんでいることの不自由といってよいだろうか、そういうものからは解放されて
いなかった。

しかし、ピナは「タンツテアター」という発明により、とりあえず「私」を開放してみせたように思う。
アイデンティティを拡散させることにより、引用してきたものが入り込みやすくなり、引用そのものを、
より強調してみせた。
「支配する物語(C・オーウェンス)」、リオタール的言説でいうところの「大きな物語」が、確固たる地位を
確立していた時代には、「主体」が世界のありとあらゆるものを「表象」してきた。註4
しかし、「それら」のものは崩壊しました、というスタンスをとるポストモダンの文化において、「支配する物語」
により被・支配者であったものたちが次々に声をあげ始めた。
ピナ・バウシュは、そういう「被・支配者」の側にいた「小さな物語」の登場人物たち─そのうちのひとつが、
ジェンダーのコンテクストで扱われる「私」であったりするのだろうが─を、拾い上げて板の上に表出させて
いるのだ。
ジェンダー的なコンテクストでは、例えば、「コンタクトホーフ」でも「山の上で叫び声が聞こえた」でも
「パレルモ パレルモ」でも「ツー・シガレッツ・イン・ザ・ダーク」でも、あらゆる場面で容赦のない「支配」
が生まれている。

「被・支配」の先に、何を見出せばいいのかという、次なる「主題」には少々手を焼いているように思われるが、
とりあえず、「支配」のあった/今なおある場所に、ピナ・バウシュは「踊って」いる。

 

<脚注>
註1:『ベケットと「いじめ」』
「2 ベケットの戦略」p184より引用.

註2:『西麻布ダンス教室』
「補講 またまたピナ&フォーサイス」p267より引用

註3:『西麻布ダンス教室』
「第2回 ピナ・バウシュと物語な女たち」p115より引用

註4:『反美学 ポストモダンの諸相』
「他者の言説」p120より引用

<参考文献> *印は引用文献

+ユリイカ ピナ・バウシュの世界  青土社/1995.3
  ピナ・バウシュインタビュー
  「私の作品は内から外へと発展する」
  「何が人を動かすのか」
  ピナ・バウシュの強度
   渡辺守章/浅田彰/石光泰夫
  受動性のポリティクス 
   尼ヶ崎彬
  ピナ・バウシュ、生存の解剖学
   西谷修
  視線の政治学
   鴻英良

+西麻布ダンス教室 [増補新版]*  白水社/1998.8
 桜井圭介/いとうせいこう/押切伸一
  ピナ・バウシュと物語な女たち
  またまたピナ&フォーサイス

+ユリイカ ベケット 形のない<私> 青土社/1996.2
  生き続ける逆説
   ブレイダー/高橋康也
  声と目と骨の小三部作
   近藤耕人

+ベスト・オブ・ベケット1「ゴドーを待ちながら」
    S・ベケット/安堂信也・高橋康也訳   白水社/1990.11

+ベスト・オブ・ベケット2「勝負の終わり/クラップ最後のテープ」
    S・ベケット/安堂信也・高橋康也訳   白水社/1990.11
  「勝負の終わり」
  「わたしじゃない」

+ベケットと「いじめ」*   岩波書店/1987.7
  別役実

+反美学 ポストモダンの諸相*   勁草書房/1987.4
   ハル・フォスター編
  他者の言説
   C・オーウェンス



 

 『西麻布ダンス教室』
 桜井圭介/いとうせいこう/押切伸一

 『反美学 ポストモダンの諸相』
 ハル・フォスター編

 
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