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 てのなか番外篇
【コト】no/08  「ギフト・オブ・ホープ」展
それでもやっぱり、「美術」が好き。
01/1/5

批評とは「よい点・悪い点などを指摘して、価値を決めること。」ということらしい。

いままで、いろいろみてきた感想からすると、概して、日本の「美術評論家」というヒトたちは、その「悪い点」を
指摘するのは得意だが、「よい点」をあまりいわない。

特に、戦後日本の美術に関しては、「悪い点」をほじくりかえして、これでもか!とばかりに「批判」こそすれ、
「批評」が、つまり「よい点」までも言及しながら美術を語ることのできるヒトをみつけるのは難しいような気がする。
敗戦のどん底から始まって、その後の卑屈さから立ち直れない作家たちの姿や、あいもかわらず、「外国」文化の
上っ面を模倣している様子などを外側から内側から嘆いていた。希望がない、くらーい陰うつさばかりが、目立つ。
そんなの、ちっともおもしろくないし、どんどん「閉じて」一方で、ますます救いがなくなる気がするんだけどな。
もっとも、それを望んでるのかね。「やつら(大衆)なんぞに、美術がわかってたまるか」って、さ。

「近頃の現代ビジュツとやらは、さっぱりわからんね」ということもよく聞く。たしかに、作家たちが「更地」で
四苦八苦している様子はあるし、進行形の美術と社会の間の距離感は、なかなか縮まる気配がなく、名のとおった
「画家」たちの展覧会にしかヒトは集まらない。

でも、意欲的な作家たちは、そこにある「更地」をすでに自覚しはじめていて、その先に進んでいる。
その「現場」に行ってきた。東京都現代美術館で開催中の「ギフト・オブ・ホープ」展だ。

そこにあった「希望の贈り物」には感動があった。そして、その感動には「更地」の上の可能性があると思ったのだ。

八谷和彦の作品は、「見る」ということへの信頼を呼び起こす。八谷さんの作品は、いつもテクノロジーを使うこと
でヒトとヒトの間に「すてきな関係」を見い出すきっかけが仕掛けられていて、今回の作品も、まるでコドモの頃の
無邪気な驚きが用意されていた。

大岩オスカール幸男とリ−・ミンウェイの作品には、ともに手紙を媒介として「未来」への「希望」が表現されていた。
個人的に好きな作家である大岩さんの作品の方は、絵空事のような遠い未来ではなく、自分のそばにある、手にとどく
「未来」をロマンティックに語る作品だ。

また、未来だけでなく、過去からもつながる「今」への想いは宮島達男を中心とした「時の蘇生」柿の木プロジェクト
実行委員会の活動にもある。

スラシ・クソンウォンの作品は、制度化された「美術館」をアイロニックに作品化していた。今までにも似たような作品
はさまざまあるが、クソンウォンは、それを「観る」側の欲望を満たすということでシニカルだけどたのしい(あるいは
エキサイティングな)作品としてプレゼンテイションした。

山出淳也の作品は、観者自身が作品制作に参加し、その世界に入り込むことで作品と自らの垣根をするりと飛び越える。

これらの作品は、「美術館」という場所に展示されている以上、その範疇に位置されているものなのだろう。
しかし、それらを「現代美術」とするか「アート」とするか、はたまた双方のどちらでもないとするのかは、観る側の
判断になる。「作家」と「受け手」の双方のどちらもが、それらの作品に半分ずつ「責任」を持つ。
「よい/わるい」「すばらしい/くだらない」「すき/きらい」は、特別な人間が左右するのではなく、その作品に
関わる人(「作家」と「観者」)が共有する相互の問題であり、それらはやがて双方にとっての日常とリンクする地平
で、会いまみえることになる。今回参加している作家の中には、そのことが言及されている作品が多くある。

この展覧会に「感動」をみて、ひとりの作家を思い出した。森村泰昌である。
当初美術シーンに登場したときにくらべれば、今の森村は「?」をつきつけられることが多いらしい。
今現在の森村は、「リサイタル」と称するライブをしてみたり、舞台に「女優」として出演したり。
しかし、その森村がいっていたことが、「感動」であった。
森村にとって、「感動に『なぜ』はいらないし、美術とは本来感動を与えられるもののことだったと思うんです。
まず感動があって、それが美術として成立した。それが『なぜ』を考え始めて、ついには感動と美術は切り離されて
しまった」 がゆえに、自身は「人びとに感動を与えて、その感動を分かちあいたい」という。
そんな姿に、「芸術」が「呪力」とともにあることについて熱っぽく語っていた岡本太郎が、ついつい重なる。
岡本太郎もまた、一般大衆からは「おどけ」として扱われ、その様子を美術界周辺はしらけた目でそしらぬふりをし、
「自分達」とは一線を画するように扱っていた作家である。

20世紀後半における「美術」の発見は、「美しいもの」の可能性を拡げたことだ。
「美しい」が視覚一辺倒になってしまったコトに異義を申し立てた、マルセル・デュシャンは、従来の「美」とは
逆のベクトルに進む「モノ」たちを「美術」に引っ張り込んだという点においては、確かに偉大な芸術家である。
しかし、それを狭義に展開させてしまった悲劇も当然あらわれる。
例えば日本でいうなら、「反芸術」とよばれた芸術活動のフォロア−たちによる、「なんでもあり」の表現形態。
方法論としては、それもいい。が、どこまでが「美しいモノ」なのか。なにを「美」とするのか。
そこの境界線をあいまいにしてしまったことで、作品・作家と観者の間に混乱が起き、結果として、「美術」は、
それらを許容する極一部の人達だけの「楽しみ」へと閉じてしまった。

そんな状況だからこそ、「感動」はひとつの可能性になる。
感動を実感として理解することができる、今回の展覧会。

「美術」とよばれるジャンルの芸術を、「わからない」のヒトコトで片付けてしまうのには、まだ早い。

 
「ギフト・オブ・ホープ」展 2000/12/16 - 2001/04/08 @東京都現代美術館

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